前世紀遺跡探訪<80s-バブル終焉>

80年代~バブル文化圏終焉(実質的なバブル崩壊は91年だが、バブルの延長的な空気が即終了したわけではないので90年代前半までとりあえずバブル文化圏と仮定しとく)の音楽や音楽をとりまく事象について、あれこれと。

オウム真理教に纏わる時代論 バカにしてたら殺されかけました

メディア等でヨガを目にする機会が本当に増えた。ヨガなんて20数年前は「オウム真理教への入り口」としてマイナスイメージしかない健康法だったのに。02年頃「海外セレブに大人気の美容健康法」としてフィットネスジムが大々的にヨガ普及キャンペーンを行い、危険で怪しいものではなくセレブでおしゃれなものとしてすっかりヨガは復権を果たしたらしい。
海外セレブを謳い文句にするのは美容健康界の最強ロンダリング方法だと思う。つかマジで碌な事喧伝しねーよな海外セレブ。海外セレブに大人気の美容健康法って高確率でスピリチュアルとセットだから、代替医療疑似科学と親和性が高い。美容健康法を突き詰めた結果オカルトやカルト宗教に辿り着くのも珍しい事じゃないのだ。若い女性がこの手の美容健康法に嵌るのは個人の自由なのでほっとくが。いや、正確に言うとほっておきたい所だが、「おしゃれだと思って足を踏み入れたら実は本気でヤバい宗教の入り口でした」というケースは未だにある。結構あるので細心の注意を払って足を踏み入れてもらいたい。信じたがってる人は信じたいものしか信じないので外野で何言っても無駄だったりするけどね。
それにまあ「全部のヨガ教室が変な宗教の入り口ではないでしょ?一部だけ見て批判するのはどうかと思う」って言われたらそりゃそーだとしか言えないし。

オウム真理教の記憶ってこうして風化していくのかなと感慨深いが、オウムの後継団体がヨガ教室を勧誘の入り口にしてるのは紛れもない事実なので風化したらいかんのでは?と思い、ちょっと書いてみましたサーセン

 

オウム真理教という団体を知ったのは1987~8年頃だったと記憶している。
当時よく遊んでいた友人の住居が、オウムの道場の近所だったため、頻繁にオウムの勧誘ビラが彼女の家のポストに投函されていたのだ。彼女の家に遊びに行くと、よくそのビラを見せてくれた。あまりにも強烈でツッコミ所満載の内容だったため、これは自分ひとりの娯楽にしておくのは勿体ない!大勢でツッコミを入れるべきだという理由で彼女はビラを捨てずに取っておいたのだという。
実際、強烈な内容だった。普通の宗教団体の勧誘ビラなら「ああハイハイ宗教ね」と捨ててしまうだろうが、オウムビラにはキワモノ的な意味で捨てるのは惜しいと思わせるものが確かにあった。
まず、他の宗教団体に比べてビラに結構金がかかっていた。ハルマゲドンだの最終解脱者だの、キャッチコピーが記憶に残りやすく、幹部信者のホーリーネームなど他宗教にはなかなか見られないオリジナリティがあった。何より、教祖の出しゃばり具合が凄かった。どのページをめくっても麻原麻原麻原麻原。あの汚いおっさんが「俺すげえ人なんだぞ臭」をまき散らしていた。よくここまで自画自賛できますね。アンタどんだけ自分が好きなんですか。と突っ込まざるをえないナルシシズムの垂れ流したるや、尋常じゃなかったよ。その「教団内という狭い世界でのみ通じるナルシシズム」と外野の認識(教団以外から見ればただの汚いおっさん)との乖離がすさまじく、ビラを見た我々は腹がよじれるほど笑った。
「何で解脱したのに年を追うごとにどんどん太ってんだよwww」
「食欲捨ててないじゃんww矛盾じゃん」
「最終解脱者だから例外らしーよww」
「なんだそりゃww教祖に都合よすぎだろwww」
…と、現在のネット用語でいえば大草原、草不可避状態。
一番笑ったのは麻原の座禅ジャンプ「超能力写真」。こんな汚いおっさんが座禅のポーズで飛び上がってる奇跡の瞬間を写した奇跡の一枚のどこが超能力だよ、ていうね…
あの座禅ジャンプ写真は本当にマヌケだった。

 

実を言えば、オウム勧誘ビラを見た印象を率直に箇条書きにして並べると
「気持ち悪い」「胡散臭い」「なんか怖い」「マヌケ」等、色々な感情があった。
「なんか怖い」が大きかったらとても笑う事はできなかったが「マヌケ」が一番大きかったので我々は盛大に笑う事にしたのである。

だがマヌケを侮ってはいけなかった。
あの写真で超能力を信じて入信した人が多かったからだ。
この「マヌケ」がオウムに対する多くの人々の判断を狂わせたと思う。

 

ビラを読む限り、オウム真理教の教義は各宗教のおいしい所だけをとった薄っぺらいものに見えた。
大乗仏教ヒンズー教チベット密教、ヨガ・コミューンのごちゃ混ぜなのになぜかハルマゲドン(キリスト教ヨハネ黙示録)の到来を主張するあたり、非常に無節操で陳腐に見えた。修行すれば超能力を得られると喧伝するのも非常に嘘くさかった。
「ハルマゲドン」「超能力」は非常に胡散臭いタームにもかかわらず、「ある世代」に対しては異常に訴求力がある。
ある世代とは1960年代~70年代初頭生まれの世代。70年代に子供時代を送った人々である。ずばり、私と同世代の方々だ。
70年代のオカルトブーム、超能力ブーム、ノストラダムスの大予言の大流行などを幼少期~小学生時代に体験したため、我々はたっぷりと終末論を刷り込まれていた。70年代のメディアによる終末論の刷り込みはそれほど凄まじかった。石油はあと10数年で枯渇する、米ソで核戦争勃発する、人口増加で食糧危機が始まる、天変地異が起こる…といった明るくない未来観をテレビや雑誌からたっぷりと植え付けられていたのだ。かなりの頻度でマスメディアはそういう特集を組んでいたので、ネットがなかった時代のマスメディアの影響力の大きさを考えたら、これはとんでもないインプリンティングだと思う。
もちろん同世代の人間全員が積極的に1999年に人類滅亡を信じてたわけじゃないと思うが、「あっても不思議じゃないかも」くらいの事を思ってた人は多い気がする。
そういう下地ができていた所にダメ押しくらわせたのが平井和正幻魔大戦」だ。
超能力+ハルマゲドン+新興宗教をテーマにしたSF作品。80年代前半、思春期に平井和正幻魔大戦」を注入された者は程度の差はあれ中二病という厄介な病に罹患した。当時「中二病」という概念は存在していなかったため、罹患者であるという自覚さえ無かったが。我々の世代だと小説版と、83年のアニメ映画版で幻魔大戦を注入された人が多いと思う。「幻魔大戦」はオウム教団側もかなり影響を受けていたはずである。作者の平井和正は一時期GLAという宗教団体に深く関わっていた人だ。麻原はオウム真理教を立ち上げる前に幾つか新興宗教を渡り歩いていたがその中にGLAも含まれていた。
更に70年代末の「ムー」トワイライトゾーン」といったオカルト・疑似科学雑誌の創刊。オウムとオカルト・疑似科学界との関りは深く、初期オウムは「ムー」で取り上げられたことにより信者を増やした事はかなりよく知られている話。


出家した信者家族とオウムがトラブルを起こしていることがワイドショー等で話題になったのはその1年後くらいのことだった。そのあと坂本弁護士一家失踪事件が起こり、ワイドショーや週刊誌でオウムネタは盛り上がりを見せるようになった。週刊誌はトラブルを暴いてオウムと対決姿勢にあったが、この頃のテレビでの扱いは「異常な宗教」程度だったと思う。その少し前にマスコミを賑わせた統一教会やイエスの箱舟と同様に「あなたの知らない世界に潜入!」という感じの見世物的要素が強い扱いだったため、確かに異様ではあるが危険視はまだそんなにされていなかったように記憶している。

マスメディアによるオウム報道の方向性が一気に変わったのは、おそらく1990年の衆議院選挙出馬がきっかけだろう。
ホーリーネームでの幹部25名の大量出馬、麻原のお面をかぶって信者達が歌い踊る選挙運動、例の「ショーコーショーコーショコショコショーコー♪」という歌。
その全てが不気味で、異様で、恐ろしくマヌケだった。
たぶん、だけど。テレビ業界(主にワイドショー)の中の人も「不気味」「怖い」より「マヌケ」が勝っちゃったんだと思う。
「こんなにマヌケな連中だったらイジってもいいんだ」という雰囲気に変わり、オウムは一気にワイドショーの面白ネタになった。マヌケなホーリーネームで選挙に大量出馬の上、全員落選という結末もまた面白すぎた。
落選をきっかけにどんどん武装化していくわけだが見た目がマヌケすぎてオウム内部がまさかそんなとんでもないことになっているとは誰も思わなかっただろう。


タイミングの悪いこととに80年代後半からニューエイジがブームになり、80年代末~90年代初頭には新興宗教ブームが起こった。オウムはそのムーブメントに乗っかって新興宗教界で台頭し始めた。
この頃、別冊宝島で「いまどきの神サマ」というムック本が発売され、オウムは非常にマトモな宗教として紹介されていた。「携帯電話のキャリア、何を選べばいいか」くらいの軽さで色々な新興宗教を比較紹介している事にびっくりした。1991年の「朝まで生テレビ」のオウム出演も本当に驚愕した。オウムの教義については勧誘ビラの内容とワイドショーで得た知識ぐらいしか持ってなかったから、いつの間にこんなに理論武装したのかと心底驚いた。私が知らなかった(知ろうとしなかった)だけで、オウムはかなり早くから理論武装してたらしい。オウム理論武装には80年代ニューアカデミズムが絡んでくるわけで、ようするに中沢新一「虹の階梯」っすね、オウムの元ネタ本の1つ。
いや、「チベットモーツァルト」は流行ってた頃読みましたがね。
オウムとニューアカを結び付けて考えるという発想は当時の私には無かった。
ニューアカは私には「知」をイメージ戦略化したもの、「知」をファッションとして消費したものというイメージが強く、オウム真理教の持つオカルト臭・疑似科学臭とうまく重ね合わせることができなかった。

 


この「朝生」出演以降、オウムは文化人・著名人の支持や擁護を受け、どんどん勢力拡大していった。
ビートたけしのTVタックル」や「とんねるずの生でダラダラいかせて」等のバラエティーに出演したのもこの頃。
オウムを持ちあげた構成だった、オウムの布教活動に一役買ったと言われてるこれらの番組だが、このバラエティのノリはすごくわかる。90年代に入ってはいたが、極めて80年代的なテレビマンの感覚を引きずったノリなのである。麻原をバラエティに出してイジるのはフジテレビが主導した80年代バラエティ番組が作り上げた空気そのもの。80年代は70年代的なものをすべて「ダサい」の一言で駆逐してきた時代。熱かったり真面目だったり暗かったりするものを足蹴にし、不真面目で軽く明るいことが面白がられていた時代。坂本弁護士一家失踪事件に絡んでいるらしいってことは知ってただろうから危険物取り扱い注意とわかってて麻原を番組に出したのである。ヤバいネタをイジるほうが盛り上がるから。そういう時代だった。
だって生ダラなんて、企画がテリー伊藤で監修が秋元康だもん。「本当にヤバいものまで面白がってイジっちゃう俺達危ね~!」っていう。本当にヤバいものでも視聴率が取れればイジってナンボ!っていう。そういうノリだよ。
こういう危険物のポップ化というのは80年代カルチャーの負の遺産だ。

 

そんな「親しみやすいオウム」「著名人も絶賛するオウム」の影で教団は着々と武装化をすすめ、拉致監禁事件だの信者リンチ事件だのホスゲンだのVXだの暗殺未遂だの松本サリン事件だの色々とやらかしてたわけである。
週刊誌では結構オウムの犯罪に突っ込んだ報道がされていたが、私は「まさかあんなマヌケな集団がそんなことまでやるとはちょっと信じがたい」と思ってた。
とか言ってるうちに地下鉄サリン事件が起こり、私はちょうど地下鉄に乗り合わせて現場を見てしまった。
非常に軽微だったが視界がやや暗くなったり、息苦しくなったりといった症状もあった。が、仕事があったのでそのまま普通に職場に行って定時まで仕事をしていた。職場は外の情報が遮断されていたのでニュースなどで大騒ぎになってることも、毒ガスであることも知る由もなかった。「地下鉄の異臭騒ぎで電車が止まり、出勤が遅れた人」が職場に何人かいたが特に大事とも思ってなかった。会社を出て道で号外をもらって大事件であったことを知った。さすがに地下鉄に乗る気にならなかったので遠回りしてJRなどを乗り継いで帰宅した。そのころには「毒ガスはオウムのしわざらしい」という噂が流れていたが、まだ信じられなかった。
「あんなマヌケな連中がまさかそこまでやるとは考え難い」と、この期に及んでもまだ思ってたのである。

でも、もうその日を境に、日本中のマスメディアはオウム一色になってしまった。
阪神淡路大震災が同じ95年の1月にあって、まだその傷も全く癒えていなかったにも関わらず、地震ネタは3月21日以降殆ど報道されなくなった。
テレビも新聞もラジオもオウム、オウム。インターネットはまだ黎明期だったがパソコン通信の会議室でもオウムで盛り上がっていたらしい。
何が異常かって、ドラマと歌以外のテレビ放送はほとんどオウムネタだったということだ。ワイドショーと通常のニュース番組以外でも「報道特別番組!オウム真理教に迫る!」といった特別番組がばんばん作られ、オウムの幹部は各局ひっぱりだこだった。この「オウムをネタとして消費する」メディアの狂乱の状況は、「バラエティで麻原がイジられる状態」の比じゃなかったとだけ言っておく。
犯罪集団らしいということは皆わかっていたが、まだ「疑わしい」という段階であって、完全にクロと決まったわけじゃなかった。「凶悪犯罪の容疑者らしい」という人物をあえてメディアに出してショーにして視聴率を稼ぐというやり方はロス疑惑事件以降、テレビでは普通にあったことだったが、オウムネタの消費ぶりはロス疑惑のはるか上を行っていた。テレビを見ていてうんざりして消してしまった人もいたかもしれないが、当時は大半の国民がオウムウォッチャーになっていたようなもんだったと思う。
また、オウムというのは呆れるくらいのネタの宝庫で…。とにかく幹部のキャラクターといい、スキャンダルといい、ネタが尽きることがまったくなかったのである。非常に不謹慎な言い方をさせてもらえばオウムは役者が揃ってたというしかない。メインの幹部だけでなく、麻原の弁護人に就任した横山弁護士というようなサブキャラまで、とんでもなくキャラが立っていた。犯罪集団だとわかってて、メディアはそれをショーにして流しまくっていたし、視聴者の大半もそれを消費しまくっていた。
当時の山瀬まみの「お父さんのためのワイドショー講座」によればワイドショーの放送時間の95%はオウムネタに独占されていたという。それが数か月も続いていた。
テレビというメディアには「テレビに頻繁に登場する人物は視聴者から親近感を持たれやすい」という特性がある。それはオウムも例外ではなかった。幹部のおっかけをする人達、ファンクラブを作る人達まで現れ、果ては青山×上祐の薄い本(当時はやおい本といったが、今でいうところのBLである)まで作られた。
幹部の1人である村井が右翼団体の青年に刺殺されるという事件が起こったが、これは刺殺の瞬間、救急車で運ばれる瞬間までテレビで実況中継された。興味本位でオウムをヲチしてた一般人はこの一件でかなりマスコミの在り方にドン引きしたと思う。それでもなおオウム報道の狂乱は続いた。オウム出せば視聴率が取れるから、どの局もやめなかったのである。
今だったらコンプライアンスの問題でここまで過剰な報道はされないかもなって気もするが。どうだろう。
私はテレビって基本的にゲスいメディアだと思ってるからその辺全然信用してないんだよね。

 

私は全然現実感がわかなくて、ぼーっとこれらの狂乱を眺めていた気がする。
寧ろ現実感は数年たってからやってきた。
地下鉄サリン事件の再現番組のたぐいが一切見れないのである。息苦しくなっちゃって。
当時の症状は非常に軽微だったし、すぐに回復してしまったため、特に健康被害を気にしていなかったのだが
20年以上たってから色々と体調が狂ってきた。息苦しくなったり視界が急に暗くなったりするのだ。
年も年なので更年期かと思い、検査したが異常なし。眼科に行ったり精神科に行ったりしたが効果なく。
こうなると消去法で出てくるのが「サリンの後遺症」の7文字。
マヌケだと決めつけて何の危機感も持たなかった昔の自分を責めたりもしたが、当時多少オウムに危機感持ってた所で、果たして危険を回避できたであろうか…と考えるとやっぱり答えはノーなのだった。

 

 

成長因子 育毛剤

 

AKB丸刈り謝罪問題とか会田誠展に対する抗議問題とか。

AKB丸刈り謝罪問題とか会田誠展に対する抗議問題とか別館で書いてます。
よろしければ読んでください。

 
記事一覧 - 別館・2013年編
 
 
なかなかこっちが更新できなくてすみません。

渡辺美里 - My Revolution(1986)

くらもちふさこの漫画に「Kiss+πr²」というのがある。
発表されたのは1986年。
80年代くらもち作品定番の「滅茶苦茶かっこいい男子」とはちょっと趣の異なるネガティブ男子が主人公。
くらもち作品で男子目線の話は割と珍しい。味のある、いい作品だと思うのだが、「くらもちふさこの代表作」といわれるほど高い評価はされていないようだ。個人的には好きなんだけどなー。
いや、最近「Kiss+πr²」を読み返したのだけど。
学園モノの少女マンガって本当にその作品が発表された時代の流行に忠実じゃない。若者カルチャーとかファッションとか口調とか。今読んだらキツイかなと思ったが、案外そうでもなかったよ。80年代に流行したファッションって、90年代や00年代に振り返ると「うわ、きっつ。ダサ」という印象が拭えなかったのだが、2013年現在の視点だと案外違和感がないなあ。特に女子のファッション。一周ぐるりと回ってファッションの流行が80年代回帰に入っているせいかとも思ったが、1986年ってまだバブルファッション(太眉・トサカ前髪・肩パッド・ボディコン)全盛期ではなかったというのが大きいかもしれない。
 

2013年視点で違和感があったのは、ファッションよりも寧ろ主人公の雑(さい)ちゃんが、自分の将来について語るシーン。
「音楽関係のライターになりたい。高校卒業したらどっかの音楽雑誌の編集部でバイトさせてもらって。いつかフリーになって生活できるようになれればなァ」
 
 

 
 
 
©くらもちふさこ「Kiss+πr²」(1986)
 

うっわあ、やめとけ。食ってけねえぞ。
日本人のマジョリティが洋楽聴いてたのって80年代中盤までだぞ(雑ちゃんはUK洋楽マニアという設定である)。
当時洋楽扱ってた音楽誌はメタル系以外は大半潰れたし、生き残ってるやつも邦楽(V系とか)に路線変更したりしてんぞ。
ロッキン・オンはすっかりフェスのステマ雑誌になってんぞ。
つか、音楽雑誌の全盛期ってせいぜい90年代までだぞ。
いま全然音楽誌売れてねえぞ。
 
…と叫びたくなった。
そうなんだよなあ、80年代の洋楽ロック少年にとっては音楽関係のライターってのは憧れの職業だったんだよなあ。
だって、70年代〜80年代は音楽って「読むもの」でもあったから。
えっ、音楽って「聴くもの」じゃないの?と思ったあなたはきっととてもお若いひと。
「聴くもの」でもあったが「読むもの」でもあったんですよ。
ネットが普及しておらずYoutubeもニコ動もなかった時代。80年代中盤まではまだCDではなくレコードが主流(たしか1986年がCD主流時代への転換期)。簡単に音楽を視聴できるシステムがなかったので、「新しい音楽」に出会う方法として「音楽雑誌で信頼できるライターのレビューを読む」というのは、外せないものの1つだったの。特に海外インディーズやマイナーミュージシャンの情報は今みたいに簡単に得ることができなかったからねえ。言葉の壁もあるしさ。音楽雑誌はコアなロックファンには貴重な情報源だったんだよ。情報量が少なすぎるが故の飢餓感からロック雑誌を隅から隅まで読破し、未知の音への期待で胸を膨らませてレコード屋にGO。当時紹介された海外音楽情報は今から考えるとアテになんないものも多かったけどね。でもネットも無いし音楽配信もない時代だからさー。
皆が情報弱者だったんだよ。
音楽誌が「読み物」だった80年代前半までは、音楽誌は殆ど文字だらけ。「ロック論」についての熱い論争なども盛んに交わされてた。年季の入ったロックファンに、ロックを理屈で語りたがるひとが多いのは、おそらくこういった時代背景の名残。

 
 
日本において音楽誌をとりまく状況が変化してきたのは84年ごろ。
版型の大きいグラビア音楽雑誌の登場以降である。
よーするに「PATi PATi」の登場ですね。これエポック・メイキングだったです。
邦楽オンリー。
チェッカーズやCCBのようなアイドルバンドまでミュージシャンとして取り上げる音楽雑誌の登場。
カラーグラビア多くて、従来の音楽誌に比べて華やかで金のかかった紙面。似たような構成の音楽雑誌としては「B−PASS」があるが、こっちは1985年創刊。
「B−PASS」は音楽雑誌の老舗シンコー・ミュージックから発刊されていたが、「PATi PATi」はCBSソニー出版。現在のソニー・マガジンズである。
当時のソニーといえば泣く子も黙る世界のソニー
そのソフトウェア部門というか音楽部門を担っていたのが米CBSとの合弁で1968年設立されたCBSソニー
CBSソニーというレーベルは元々アイドルビジネスをやってたレコード会社で、南沙織山口百恵天地真理キャンディーズ松田聖子などを世に送り出した。
 

そのCBSソニー傘下で、ロック部門を担当していたのが「EPICソニー(1978年設立。88年、CBSソニーに吸収合併)」である。
EPICソニーに所属していたのがTHE MODS佐野元春大沢誉志幸大江千里TM NETWORKBARBEE BOYSエレファントカシマシTHE STREET SLIDERSなどのアーティスト達。EPICソニーは日本で最初に「ロック」をメジャーな商業音楽として売り出すことに成功したレーベルだった。
EPICソニーの成功は、後のバンドブームの下地を築いた。というかバンドブームの牽引に一役買った。
いや、一役買った以上か。
おそらく「80年代の日本のロック」と言われたらインディーズ系やパンク系より、ソニー系列のアーティストを連想するのが日本のマジョリティだろう。
EPICソニーの成功のあとを追うように、1983年頃から本家CBSソニーもロックビジネスに参加。
CBSソニーのロック部門にはレベッカ、プリプリ、尾崎豊米米クラブ爆風スランプなどが所属しており、ソニー系列アーティストというのは本当に80年代邦楽ロック(J-POP)ビジネスシーンの中核にいた。


 
 
まあ何といってもソニーといえばステマステマといえばソニー
ソニーさんのロックを商業音楽にする戦略過程、実にお見事でした。
2012年の流行語なので今更説明はいらないだろうがステマステルス・マーケティング。「消費者に宣伝と気づかせずに宣伝を行う」ことを指す。
「PATi PATi」はCBSソニー出版なんでね、ソニー系列のアーティストが誌面の8〜9割を占めてましたね。だから「PATi PATi」買うひとはそうと気づかぬうちにソニー系アーティスト(レベッカとかプリプリとか)の宣材を目にしてるというわけ。
「PATi PATi」に限ったことではないが、邦楽音楽誌の大半は音楽誌の皮を被った音楽広告誌である。レコード会社や芸能事務所とのタイアップ提灯記事。タイアップというよりパブリシティかな。「レコード会社側が広告費として音楽雑誌に金を払ってアーティストを賛美する記事を書いてもらう」、というコマーシャル性の強い世界だ。邦楽音楽誌でよくインタビューされてたミュージシャン達ね、インタビューのギャラを殆どもらってないんだそうですよ。パブリシティだからギャラが出ないの。
レコード会社から広告収入あるうえに、ミュージシャンにはギャラを払わない、
となれば音楽雑誌が滅茶苦茶売れてた90年代は、この業界ボロ儲けだったんじゃないだろか。
現代は情報をネットで簡単に手に入れられる時代(しかも瞬時に無料で)になったので、音楽雑誌は衰退したけど。

 
 
あと、ソニーは「VIDEO JAM」(ビデオジャム)という音楽番組もやってた。
これもソニーミュージック関連のアーティストばかり紹介していたので、「あっ、邦楽MTV番組だ」と思って「VIDEO JAM」見てると、知らんうちにソニー系列のミュージシャンの宣材にばかり触れることになるという構造。
 
それとアニメとのタイアップ。
アニソンのOP、EDをJ-POPミュージシャンが担当するようになったのは80年代から。
マジンガーZに代表されるような「いかにもアニソン」という曲が消え、アニソンがJ-POP化していったのは1983年ごろからである。
先駆けとなったのは杏里「キャッツ・アイ」やH2O「想い出がいっぱい」あたりだろう。
杏里「キャッツ・アイ」の大ヒットで、アニメ主題歌つうのは音楽プロモーションの意外な穴場だったことに業界側が気づかされたんですね。
それ以降、様々なレーベルがアニソンとのタイアップを開始。中でもEPICソニーは積極的にアニメとのタイアップを実施してきた。
かくしてEPICソニーはアニヲタまで「ソニー系邦楽ロック」のファン層に取り込むことに見事成功。
邦楽ロック(J-POP)とアニメのタイアップは現代まで脈々と続いていますね。


 
いや本当にソニーさんのロック戦略はお見事でした。
皮肉でなく褒めてるんです。
70年代は邦楽ロックってマイナー音楽で、一部のコアなリスナーのみに需要があるに過ぎない音楽業界のニッチ産業でしたからね。
邦楽ロックを日本武道館やドームで公演やっても客が満杯になるほどの音楽業界のメインストリームにまで仕立てたのは、まぎれもなくソニーさんの功績でしょう。
商業音楽やる以上は食っていかなきゃなりません。
ロックというものが日本でビジネスとして成立するようになったのは80年代ソニーのビジネスモデルが成功したおかげです。
 
商業的に成功するのと引き換えに、ロックはカウンターカルチャーとしての役割を失い、反体制的でも反社会的でもない人畜無害で健全なエンターティンメントとなったわけだけどな。まあ、しゃーない。

 
 

んで、そんな80年代EPICソニーを象徴するアーティストが「渡辺美里」だとわたしは思ってるのだが。
渡辺美里は、おそらくEPICソニーというレーベルに最も推されていたアーティストだと思う。
渡辺美里Wikipedia読むと
 

90年代以降の邦楽で活躍した、小室哲哉岡村靖幸木根尚登伊秩弘将佐橋佳幸石井妥師といったミュージシャンは渡辺美里への楽曲提供をきっかけとして台頭したともいわれる。
 

と書いてあるが。
逆だろ。
「当時のEPICの才能を結集させて渡辺美里のための曲を書かせた」が正しいと思う。
EPIC所属ミュージシャンの全面的バックアップを受けるくらい、EPICソニーに推されてたってことだよ。
なんで「80年代EPICソニーを象徴するアーティスト」かっていうと、それっくらいソニーに推されてたってことと、「アイドルをアーティストのパッケージで売り出した先駆け・成功例」だから。
ソニーグループというのは元々アイドルの売り出しに実績があったレーベル。
渡辺美里って「ミス・セブンティーン」というアイドルオーディション出身なんだけど、「ミス・セブンティーン」ってCBSソニー集英社の協賛なんだよね。
渡辺美里はミス・セブンティーン出身というだけでなく、元スクールメイツという、元々アイドル志向のあったひと。それが、なんでロックを演るようになったかというと「好きな歌手はセックス・ピストルズ」と答えるようなキャラだったから、ソニー傘下のEPICよりロック系として売り出されたのだろうと推測してる。で、結果的に「アイドルをアーティストのパッケージで売り出した先駆け・成功例」となった。
アイドルとロック、アイドルとアーティストって当時はまだ対立概念(今もなのか)だったんでね、ロックだのアーティストだのという言葉でアイドルをコーティングすることは「リスナーの選民意識をくすぐる手段」として非常に重要だったわけ。だってソニーグループが購買層として狙ったのは「歌謡曲やニューミュージックやアイドルじゃない音楽を聴いてるちょっとランクが上のオレ」という選民意識を持った層だから。でも洋楽は敷居が高いというひとたちね。
アイドルビジネスの成功実績を持ち、なおかつロックを商業音楽として日本に根付かせたソニーというレーベル。その実績の集大成だと思うんだよ、渡辺美里の商業的成功って。
プリンセス・プリンセスPRINCESS PRINCESS)も同系列かな。
プリプリは寄せ集めのアイドルバンドとして他レーベルからデビューして泣かず飛ばずだったのがソニーに移籍したことで「ガールズ・ロックバンド」として成功を収めたパターンだけど。
今聴くと渡辺美里の曲は、楽曲のジャンル的には「ロック」というより「ポップス」なんだけど、当時はそういうものまで従来の歌謡曲やニューミュージックとの差別化を図るために「ロック」と呼んでいたので、とりあえず「ロック」として話をすすめます。
 
 

 

渡辺美里 - My Revolution(1986)
 
 

面白い曲だよねえ。
いろんな意味で。
80年代ガールズロックって、「根拠なきポジティブ思考」「やたら明るくて元気いっぱい」を全面的に押し出したものが多かったけど、そういう路線の基盤を築いたのはこの曲なんじゃないかと思う。
作曲は小室哲哉で、小室哲哉出世作とも言われている。
のちの小室節全開。
ありえない転調の連続。
有名な話だが、小室哲哉は実は譜面が読めない。
コード覚えて、それで音楽作ってるひとだ。
小室コードと呼ばれるコード進行と、唐突な転調が小室作品の特徴だが、転調に関しては「トランスポーズのボタン適当に押したら転調を覚えた」とも 「ソフトのバグで勝手に音調が変化し転調してしまったことがきっかけ」とも言われている。
DURAN DURANニック・ローズもそうだが、譜面読めないキーボード奏者の作る曲ってコード進行が変で面白い。クラシックの素養があると却って変な曲作るの難しいんだよね。一回、身についたものを破壊しないと逸脱した曲が作れないから。
My Revolutionは3回転調してるんだが、「元々別に作った2つの曲をサビでつなぎ合わせた」と小室本人が「宝島」のインタビューで言ってたのを読んだことがある。
だから本来は、ものすっごく変な曲。
AメロBメロとサビがバラバラなのに、絶妙なバランスで成立してる奇蹟的な曲といってもいいかもしれない。90年代に小室サウンドを嫌っていうほど聴かされたおかげで日本人はこういう構成の曲にすっかり耳が慣れちゃって、現在としては「普通」なんですけどね。当時としては斬新だったんですよ。
My Revolutionというのは80年代ガールズロックの基盤でもあるが、「J-POP」のルーツでもあると思う。小室以降、J-POPって何の脈絡もなくいきなり転調する曲がデフォルトになってしまった印象があるから。
わたしは小室哲哉の曲の構成パターンも、音楽ビジネスのあり方も、そこから窺い知れる彼のメンタリティも、実はかなり苦手なんだが。
でも、現象として非常に興味深いと思うよ。
 
 
 



若者の洋楽離れが進み、一世を風靡した小室サウンドが駆逐され、握手券をつけなければCDが売れず、コンサートを開けば空席だらけ、音楽誌はどこも売れず青色吐息で、チャートの上位はAKBとジャニーズに占領され、音楽市場そのものが縮小してる昨今。
こんな日がやってこようとは86年にはまったく予測もできなかったのだが。
「Kiss+πr²」の「雑ちゃん」はいまどうしているだろうか。
86年に彼の望んでいた通りの職業に就くことができたのだろうか。
わたしは彼の人柄がとても好きだったので、この音楽市場縮小の嵐の中でも、今の彼が音楽ライターとして食っていけてるといいなあと本気で願ってる。
 
 

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